Newコラム社会長竹孝夫

新1万円札の顔「渋沢」の一面 ―足尾銅山創業者・古河と親交―

元東京新聞編集委員・論説委員 長竹孝夫

不動産経済Focus & Research 2023.8.16掲載)

 江戸末期から昭和初期まで活躍し「日本の資本主義の父」「近代日本経済の父」などと称された渋沢栄一(1840~1931 年)は、来年度上期(4~9月)発行の一万円札の「顔」になるが、日本公害の原点とされる栃木県北西部の「足尾銅山」創業者・古河市兵衛(1832~1903 年)ともつながりが深かった。この銅山は後に足尾鉱毒事件の「引き金」となった。

  渋沢と言えば、1916年に「論語と算盤」を著し「道徳経済合一説」を唱えたことで知られる。拠り所は幼少期に学んだ「論語」で、私利私欲でなく公益を追求する「道徳」と利益を求める「経済」が事業において両立しなければならないという理念である。

 渋沢が、公共設備、製糸、株式取引所など 500 以上の企業、600 以上の社会事業に関わ ったことは言うまでもない。33歳の時に民間資本の「第一国立銀行」(現・みずほ銀行)総監役となり間もなく頭取となったのはよく知られている。その頃に出会った実業家で後に古河財閥創業者となる古河市兵衛とのやり取りが、国立国会図書館所蔵の「古河市兵衛翁傳」 (1926 年発行)に記され、この中で渋沢はこう語っている。

 「古河翁とは明治3年(1870)ごろからの交際であった。新聞も読まず学問もなく、法律などの話をしても、国の法律も県の命令も混同して、等しく『お上の掟 おきてだ。服従しなければならぬ』というふうで、不条理な人であったが、銅山のことになると実に記憶がよく、まるで人間が違うように思えた。学問はせぬが銅山のことは技師以上で、特殊な感覚を持ち、その能力は非凡であった」

 「古河翁は明治8年(1875)、私のところに相談にきて、鉱山業が一番面白いから自分は一 生をこのことに投じるつもりだと語り、その第一着手として新潟県の草倉銅山に手を下した。 無資本だから、この時に第一国立銀行から一 萬圓を融通したように覚えているが、幸いにもこの銅山が的中して、次第に運命を開拓するようになった」

 足尾銅山について―。「古河翁は(山が)欲しいが、買い取るだけの資本がないので、組合などで経営することになり、後に私も(経営に)参加して二萬圓を出資し、仕事は古河翁が引き受けてやることにした。明治12 年(1879)に銅山は面白いものだと言われ、案内されて足尾に行き、4年後にも行ってみたが、山の規模は大きくなるばかりであった」・・・。

 古河翁について「懇親の間柄」と表現した渋沢は一時、足尾銅山の経営に参画したが、事業が軌道に乗り、退いたとされる。

下流域を汚染した足尾銅山鉱毒

 足尾銅山製錬所は 1877 年に創業され、1880 年代には鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、 下流域を汚染した。清流から魚の姿が消え、大洪水で冠水した稲が腐り、桑も枯れた。1890 年 とその6年後の大洪水では栃木、群馬両県のほか、茨城、埼玉県にまで被害が及んだ。精錬 所からの亜硫酸ガスは足尾山地をはげ山にし、洪水を激化させた。

 明治政府は日清戦争などもあって銅の生産をやめなかった。「余は下野(栃木)の百姓なり」 を自称した政治家・田中正造(1841~1913 年)は被害民と共に立ち上がった。「毒を含んだ穀物(米・麦)や野菜を食べてはならない」「鉱業は停止すべきだ」と訴えた。公益に有害なものは許せず、国会で政府の責任を激しく追及。明治天皇への直訴を決行したが、天皇の馬車の前で足がもつれ、警官に取り押さえられた。

 正造は亡くなるまでの9年間、栃木県南部の谷中村に住みつき、土地買収反対と村の復活 に専念したが、居住家屋は強制破壊されて廃村。住民の一部は北海道・サロマベツ原野に移住し、過酷な生活を強いられた。

 この鉱毒事件は、当時の新聞に大きく取り上げられ、渋沢が知らないはずはないが、甚大な 被害にどう言及し、被害民の救済に乗り出したのかどうか。可視化が求められているが、裏付ける資料は見つかっていない。

 三菱の政商・岩崎弥太郎に相談を持ち込まれても一緒に組まず、伊藤博文に立憲政友会入りを請われても断った渋沢。鉱毒被害に対し官と民を峻別し「一資本家たらん」としたのか。 「民の口出しよりも官の責任」と割り切ったのか。 彼の「真意」や心を痛めた「気配」が全く見えないのは残念でならない。

「癩(ハンセン病)予防協会」 初代会頭

  一方で長年にわたってハンセン病対策に関わった渋沢。1931 年に発足した半官半民の 「癩(ハンセン病)予防協会」の初代会頭を引き受けたが、言うまでもなくハンセン病対策はわが国最悪の人権侵害となった。

 患者の強制収容を推し進めた当時の医師・ 光田健輔( 1876~1964 年)と親交を結び、光 田の思想は渋沢を介して国策に反映されたとされる。弱者救済のため善意ゆえに対策を進めたのかもしれないが、結果的に真逆の結果をもたらした。

 文化勲章を受章した光田の「業績」は後に厳しい批判にされたが、渋沢の責任について正面から論じられることがなかった。先進国では 同協会の発足前から「ハンセン病は隔離の必 要がない」というのが常識とされた。検証が必要 だろう。

 正造は「百年の悔くいを子孫に傳(伝)ふるなかれ」との言葉を残した。今年は足尾銅山の閉山から 50 年、今も危険な汚染土や堆積場が残っている。ハンセン病患者の後遺症は続き、偏見と差別の解消も求められている。

 来年度は40 年ぶりに一万円札の肖像が福沢諭吉から変わる。これを機に渋沢の「足跡」 を正しく捉え、国の在りようも見定めなければならない。過ちを繰り返さないために。

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